日本プロ野球名球会 > 名球会コラム > 第2回 稲尾和久
―昭和30年暮れ、高校卒業を間近に控えた稲尾氏は、九州福岡をフランチャイズとする西鉄ライオンズと入団契約を交わした。契約金50万円、年棒は42万円だった。
別府緑ヶ丘高というのは、高校野球の世界ではまったくの無名の学校だったですね。僕はそこそこ速い球を投げるピッチャーだったけれど、コントロールの悪い、いわゆるノーコンのピッチャーでね、負け方はいつもフォアボールと失策がらみ。もちろん甲子園にも出られなかったピッチャーだったんです。
ただ僕の投げるボールには何か魅力があったんでしょうね。当時、長島茂雄さんがいた立教大学の野球部、それから南海ホークスと西鉄ライオンズから「うちへ来ないか」という誘いの声がかかってきた。いろいろ迷ったんですが、最後はやっぱり親父の言葉だったですね。親父は別府湾で1本釣りの漁師をやっていたんですが、「お前は九州で生まれ育った。野球をやるんだったら九州のチームで働け」と。その言葉で西鉄入りを決めたんです。
貧乏漁師の家の汚いちゃぶ台にね、1,000円札で500枚、50万円というお金が積まれたときは、やっぱり衝撃でしたね。お袋は本当に失神しちゃうし、僕は僕で「ああ1,000円札って、こんな色しているんだ」と、妙なことに感心したのを覚えています。あとで調べたら、当時の初任給は高校卒が6,000円、大学卒で8,000円という時代ですからね、大変なお金を貰ちゃったな、というのが正直な感想だったですね。
―期待に胸をふくらませて西鉄に入団した稲尾氏だったが、春のキャンプで与えられた役割は、主力選手相手のバッティングピッチャーだった。
毎日1時間、バッティングピッチャーやるわけですよ。で、その後ブルペンへ行って練習しようとすると、ピッチングコーチが「お前、まだいたんか」と。投手陣の練習はもう終わっていて、キャッチャーもいない。コーチに練習させてくださいっていったら、「もう終わったからグラウンドを走ってろ」という指示なんですね。で、毎日毎日それなんですよ。
僕と同期の高卒ルーキーが2人いたんです。1人はピッチャー、1人はキャッチャーでね、2人とも甲子園に出たうえに、第1回ハワイ遠征チームの選抜メンバーだった。で、寮で話をしていたら、たまたま契約金の話になったんです。そうしたらピッチャーは800万円、キャッチャーは500万円貰ったというんですね。「稲尾、お前いくらや」って聞かれたけど、恥ずかしくって本当のことはいえないですよ。で、そのときにわかったわけです。僕は員数外なんだってことがね。
でも、それが僕の発奮材料になったことは確かなんです。僕が練習できる場所はどこかといったら、それはバッティングピッチャーをやってる1時間だけ。じゃあ、それを利用しない手はないじゃないかって考えたんですよ。
バッティング練習でバッターがいちばん喜ぶ配球というのは、3球続けてストライク、そしてボールというパターンなんですね。カンカンカンと打って1球休むというパターン。ということは、4球に1球は自分の練習ができるということですよ。ボールでいいんだから、速球でもカーブでも自分の好きな球を投げられる。当時、僕は1分間に8球ぐらいの間隔で投げていましたから、10分間で80球、1時間で480球ですよね。その4分の1だから120球、毎日、それだけの球を自分の練習のために投げたんですよ。
―バッティングピッチャーで抜群の制球力を身につけた稲尾氏は、シーズン開幕戦にリリーフとして登板。以後、順調に勝ち星を重ね、シーズン終了時には21勝6敗、防御率1.06という好成績を残してパ・リーグ新人王に輝いている。
高校時代はノーコンピッチャー。それが1年目に21勝して高名な野球評論家から「針の穴を通すコントロール」なんて褒められたわけです。なぜそうなったかといえば、それは同期に最高のライバルがいたことと、彼を乗り越えるために、与えられた環境のなかで最大限の努力をした結果だと思うんですよ。
だから、僕が入団1年目のキャンプで得た教訓というのは、結果は環境から生まれるんじゃなくて、工夫や努力から生まれるということ。最良の結果を出すのは、与えられた環境ではなくて、その環境のなかで行う工夫や努力なんだということですね。だいたい、こういう環境でなきゃ練習しないという人は、どんな立派な環境を与えてやっても練習しないし、また選手として大成できた人はほとんどいないですね。
財団法人 産業雇用安定センター刊「かけはし」
2000年2月号より抜粋