日本プロ野球名球会 > 名球会コラム > 第22回 藤田 平
―昭和40年秋に開かれた第1回目のドラフト会議で、阪神タイガースは市立和歌山商業高校の遊撃手、藤田平氏を2位指名して獲得した
プロの練習に合流して最初に感じたことは、スピードの違いということだったですね。とにかく全部が速いんです。ピッチャーの投げる球、飛んでくる打球、内野の連携プレーのタイミング、すべてのプレーが高校野球に比べて一拍も二拍も速いんです。
たとえば守備練習で内野ゴロを補給したとき、ドンッという感じで身体が後ろに押される感じがする。するとファーストへのスローイングもまた一拍遅れるんですね。本当は打球の勢いを殺すような補給をしなくちゃいけないんですが、打球があまりにも速いので、そのスピードに対応できないんです。
それから内野の連携プレーですね。セカンドゴロが飛んでくると、2塁手が補給してバックトスするでしょ。それを遊撃手の僕がセカンドベースに入って捕球しなければならないんですが、やっぱりセカンドに入るタイミングが遅くて、そのバックトスがうまく捕球できない。でも、2塁手の先輩は僕のことなんかまったくお構いなく、自分のスピード、自分のタイミングでボールをトスしてくる。捕球できないのはお前が遅いからだということですよね。そういうプレー全般のスピードの速さを実感して、ああ、やっぱりプロの世界は凄いなと思いましたね。
―当時の阪神タイガースは一軍選手の大半が30代半ばのベテラン選手達で占められ、明らかに新旧交替の時期を迎えていた。そうしたなかで高卒ルーキーの藤田氏は開幕戦から1軍レギュラーに抜擢され、その打撃・守備にわたる非凡な才能を早くから発揮しはじめる。
山内一弘さんや吉田義男さん、村山実さんなど、当時の1軍メンバーのほとんどは30代半ばから後半の人たちで占められていた。で、球団としても若手を早く育てていかないと戦力が先細りしてしまうという危機感から、高校を卒業したばかりの僕を開幕から1軍で使ってくれたんだと思うんですよ。だから1試合に3つエラーを重ねたときはさすがにベンチに戻されたんですが、普段は打てなかろうが、エラーを重ねようが、結構辛抱強く僕のことを使ってくれたんです。
ただ、それだけプレッシャーはきつかったですね。いっしょにノックを受けていても後ろから「お前が来たから俺はレギュラーを外されたんだ」とか「お前は監督に可愛がられているからレギュラーになったんだ」とか、そういう声が聞こえてくるわけですよ。それから挨拶しても声を返してくれない先輩もいる。まったくの知らん顔ですから、ああ、この先輩には挨拶しなくてもいいのかなと思って、次は声をかけないでいると「あいつは挨拶もしよらん、生意気なやっちゃ」といわれるわけですね。
だから、こちらも挨拶は必ずする、練習後や試合後の風呂には最後に入る、送迎バスには真先に乗り込んで最後尾の座席で先輩方を待つ、そういう礼儀はきっちりと守りながら、心のなかでは「グラウンドに入ったら年齢は関係ない。18歳も38歳も同じ土俵の上のライバルだ」と、そう思って練習に励んだんです。
―デビュー2年目には早くも遊撃手のポジションでベストナインを受賞した藤田氏は、以後も常に3割に近い打率をキープしてチームの主軸選手に育っていく。
練習はいっしょにやるんですが、一番重要なのは、その後の自分の練習ですね。自分にいま足りないのは何か、それを伸ばすにはどういった練習メニューを組んだらいいのか、そういう自己鍛錬の計画を立てて、その段階の一つひとつをクリアしていったんです。
僕は入団して5年間は寮で暮らしていたんですが、そこで何をやったかというと、まず率先して電話番をやりましたね。電話番をやると、先輩にかかってくる電話を待ちながらバットを振ることができる。また、若手はよく先輩に誘われて飲みに行ったり、遊びに行ったりするんですけど、電話番を引き受けると、それを断るいい口実になるんですよ。
それから阪神ファンには、選手を引っ張り回して喜ぶ人たちがたくさんいるんですが、寮で暮らしていると門限があって、それがまた誘いを断るいい口実になった。だから、ずっと寮から出たくないといって頑張ったんですが、最後は「お前ももう中堅になったんだから」と、そういわれて結局、寮から追い出されてしまったんですよね。
財団法人 産業雇用安定センター刊「かけはし」
2001年10月号より抜粋