日本プロ野球名球会 > 名球会コラム > 第23回 梶本隆夫
―高校3年のときに一塁手から投手にコンバートされた梶本氏は、にわか仕立てのピッチャーながら高校選手権の岐阜県大会でノーヒットノーラン3回、完全試合1回という驚異のピッチングを披露、一躍、プロ球団から注目される存在になった。
岐阜県大会では優勝したんですが、その後、三重県の学校との地域大会で負けて、結局、夏の甲子園大会には出場できなかった。甲子園に出られなければプロは無理だろうと、そう思ってプロ行きはすっかり諦めていたんですが、まず阪急ブレーブスのスカウトの方が訪ねて来てくれて、次に地元の中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツのスカウトの方が、うちに来ないかと訪ねてきてくれたんです。
それで家族に相談したら、叔父さんがいる阪急に行けと。後にブレーブスの球団代表、そしてパ・リーグの会長を務めた岡野祐さんと僕とは親戚関係にあるんですが、その岡野さんが当時、ブレーブスの親会社の阪急電鉄に勤めていた。で、プロで成功しなかったらすぐ帰ってきていいから、とりあえず叔父さんのところに預けようという話になって、それでブレーブス行きが決まったんですね。
―185センチの長身から投げ下ろされる低目の豪速球。オープン戦で実力を発揮した梶本氏は、ルーキーシーズンである29年の開幕戦に先発ピッチャーとして起用される。
僕以外のピッチャーは、そのほとんどが甲子園出場組だったですね。契約金も甲子園組は300万円とか、それぐらい貰っていたそうですが、僕の場合は50万円で、ほとんどテスト生といった扱いだった。ただ、それが僕にとっては非常に幸運に働いたんだと思いますね。甲子園組と同じことをやってたんじゃ、絶対に一軍のマウンドには立てないと思って、プロ行きが決まったときからランニングをしたり、プロの練習に参加してピッチングをしたりして、29年の春のキャンプがはじまるころには、もう全力でボールが投げられる状態にまで身体を仕上げていたんです。
だから監督に呼ばれて「開幕戦に行くよ」といわれたときもオープン戦と同じような感覚で「わかりました」と。高卒ルーキーで開幕1軍、しかも開幕投手ですから、いま思えば凄いことだったんだとわかるんですが、当時は、もう目上の人にいわれたことは絶対でしたからね。行けといわれれば「はいッ」と、もうそれだけですよ。
開幕戦に勝利投手になって、それからどんどん勝ち進んでオールスター前には12勝を上げた。オールスターのファン投票でも投手部門の1位になったんですが、そのときスポーツ新聞に『5千円エースがオールスターに』って紹介されたんですね。実際、そのときの僕の年棒は24万円で、月給は2万円だったんですが、新人だから、まあそれぐらいだろうと勝手に書かれちゃったんですね。それで球団も困って、オールスターのはじまる前に呼ばれて、給料を8月から倍にしますといわれたんですよ。
ああ、プロというのは、やればやっただけ貰える世界なんだな、とそのとき思いましたね。ただ、シーズン途中で給料が上がったのは、そのとき一度切りだったですけどね。
―豪速球を武器に勝ち星を重ねていった梶本氏だが、30代に入って、その投球内容はガラリと一変する。
20代のころは1人3球、1イニングを9球で終わらせるというのが僕の理想のピッチングだったんです。ところが、31歳のときに突然勝ち星から見離されたようになって、1シーズン15連敗という日本記録をつくってしまった。それからですね、ピッチングの内容が変わったのは。それまでは力でグイグイ押していくというピッチングだったんですが、それからは投球術というんですか、いかにしたら1人1球、1イニングを3球で終わらせられるか、というスタイルに変わっていったんですね。
僕は結局、プロで20シーズン投げて、48年のシーズン終了後、38歳で引退したんですが、肩や肘をはじめ、どこも故障しないで引退できたんです。まあ親からもらった身体が頑丈だったこと、楽しんで野球をやったこと、それから毎日走って足越を鍛えつづけたことなんかが、故障なしの引退につながったんじゃないかと思っています。
辞める直前にはナックルも投げられるようになっていたから、チーム事情さえ許せば50歳ぐらいまでは投げられたかな、なんて思ったこともありましたが、まあ、いまは我が野球人生に悔いなし、の心境ですね。やるだけのことは精一杯やりましたから。
財団法人 産業雇用安定センター刊「かけはし」
2001年11月号より抜粋